北極点

短歌のことを書いてます

「へペレの会 活動報告書vol.1」感想

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表紙と裏表紙

へペレの会とは

 今回は、「へペレの会 活動報告書vol.1(+ヘペレごはん帖)」(2018.8)を紹介します。

 「へペレの会」は、札幌在住のまひる野会員を中心に、2016年11月に結成された会です。作品の相互批評、短歌の勉強会を中心に行っています。「ヘペレ」はアイヌ語で「こぐま」。(「ごあいさつ」より)

 メンバーは「まひる野」誌面〈マチエール欄〉から小原和(いずみ)、北山あさひ、佐巻理奈子、塚田千束、広澤治子(はるこ)の5人(「活動報告書vol.1」発刊当時は佐巻さんと塚田さんは作品Ⅲ欄)。これをまひる野北海道支部長の矢澤保さんが特別顧問としてバックアップしているそうです。

 左開きで「ヘペレごはん帖」、右開きで「活動報告書 vol.1」という意欲的な構成。デザインは会員の広澤さんが担当。僕も昔、学生演劇をやっているときにフライヤーをつくったりパンフレットをつくったりしていましたけど、これがなかなか大変だったなあ、ということを思い出しました。

 結社誌の編集委員の方々は僕のそれなんかよりもっと大きな規模で毎月格闘しているわけです。足を向けて寝られません。

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 それでは作品の感想です。作者ごとにわけています(敬称略)。

 作品集より 

★小原 和

 ふくふくと小さくなりゆくベビーバスわたしのことは忘れてもいい

 乳幼児を沐浴させる時に使うベビーバス。赤子が大きくなっていく様子を、ベビーバスが小さくなるという主格の転換で描写する。「ふくふくと」が子供の豊かな成長を思わせ、「小さくなりゆく」と反響しながら効く。

 下句「わたしのことは忘れてもいい」は祈りにほど近い。あなたが健康に、元気に、いやむしろ生きていてさえくれればそれでいいんだよ。親に感謝しろとか孝行しろとか、期待に応えなきゃとか、思わなくていいんだよ、という真摯な愛のモノローグ。

 一連を読むと、この歌は実子ではなく「姉の子」(つまり姪)をモチーフにしたようにもとれる。であれば、親戚のひとりに過ぎない私のことは気にしないでね、という切なさか。こういった見返りを求めない助けに支えられて、自分も大きくなってきたはずだよなあ、と反省。

 うちは娘の沐浴(と入浴)は僕のかかりでした。あっというまに使わなくなるんよね。どこいったかな。誰かにあげた気がする。ばんばん捨てることもできず、処理しきれないベビーグッズの数々。他、

 指先にポテトチップス匂いたるわたしを軋むほど抱いてみろ

 パンプスを脱ぎ捨て今日に着地する 足の裏には草原がある

 などの秀歌。

 

★北山あさひ

交差点 炎天 胸に抱きしめる毛蟹ですこし涼しいわたし

 残念ながら僕は毛蟹を抱いたことがない。絶対に痛い。というか、毛蟹じゃなくても痛い。甲殻類を胸に抱いてはいけない。でも抱きしめている。

 例えば歩いている時、この交差点で右に曲がりたい、と思う。そうすると、タイミングがよくない限りは、一回まっすぐ渡って、曲がる先の信号を待たなければならない。だから交差点は特に「炎天」にじりじりとさらされやすい場所なのだ。

 おそらくこの「毛蟹」は、どこかに持っていく最中なのだろう。氷とか、保冷剤でキンキンに冷やしているわけだ。それを抱いて涼をとる。という事実をばさっと省略し、「胸に抱きしめる毛蟹」であたかもそのものを抱いているかのようなイメージを提出する。軽妙なタッチだが、なかなか技巧的な作品。

 しかし北海道の炎天とはどれくらいの炎天なのだろう。名古屋はまさしく炎天だ。いい加減にしてほしい。他、

 おかずがない夜は涼しくテーブルにバターと醤油と目薬と釘

 これからもずっと人間 さびしくて私は不死身の杉元が好き

 一首目は現代短歌2019.1月号「心に残ったこの一首2018」で永井祐さんも引いている。二首目の「杉元」はマンガ『ゴールデンカムイ』の主人公で、オソマが好き。

 

★佐巻理奈子

わたくしはわたくしのものですらないひたひた塞がるピアスホールよ

 ピアスホールは放っておくとふさがってしまう。自分の意志で身体に穴をあけたのに、身体が勝手に修復してしまうのだ。自分のものだと信じている肉体すら、自分の意志に従うことはない。この感覚をピアスホールから喚起する。

 四句に投じられた「ひたひた」の不気味さが、まるで肉体が悪意をもって作者にはたらきかけているようだ。外せない仕事の時に胃が痛くなったり、大事な試験の時に限って高熱を出したり、たしかに肉体は常に「わたくしのもの」でないことを主張する。

 先述した小原の一連にも「青空に手を伸べて咲く白木蓮わたしの全てはわたしのものだ」がある。「わたくし」の内面と現実との統合は、特に現実社会に打ちのめされる若年世代にはシリアスな問題になるのだろう。拙作にも「みんなしぬかわたしがしぬかのどっちかだ あんな夜明けを待ち望むには」があるが、どうしたんだこいつは。他、 

ひさかたの春のキッチンぽっちりと焼きピーマンにおしょうゆ垂らす

 も素朴な良歌。こういった素材も、どんどん読んでみたい。

 ちなみに僕がピアスホールのことを知ったのは米沢りかの『こっぱみじんの恋』というマンガで、「田中邦衛」という(準?)ヒロインが失恋してピアスを空けた時のエピソードだった。

 

★塚田千束

レタスから夏の匂いが美しく押し花のように両手で潰す

 レタスをつぶすとはどんな状況なのだろう。サラダにするときにドレッシングのからみを良くしたり、チャーハンに入れるときに火の通りを良くするために手でちぎったりはするのだが、つぶす調理法があるのだろうか。

 しかしこのような、現実に即しているかというリアリティで歌の良し悪しを決めることは一概にはできない。辻褄を合わせるという添削は、詩の添削としてはたして適切なのか、とよく自問している。

 潰すといっているのだから、潰したのだ。レタスは確かに他の葉菜よりみずみずしく、フレッシュなかおりがする。作者はそれが潰してしまいたいくらいうとましい。うとましいのに、その鮮やかさを押し花のように永遠に残したい。このアンビヴァレントな思いを対比ではなく並列させることで鮮明に描く。出色の出来。他、

 雨の匂い畳がわっと押し寄せてかえす波間で足を絡めた

 爪は皮膚の、つまり私の延長で私が私を切り落とす夜

 二首目の、やはり「私」がどこまで私なのか、特に短歌という詩型には宿命的にまつわることなのだろう。自我を持つ私という幻想が徹底的に解体された現代的な悩みでもある。

 

★広澤治子

 ひとことも話さないまま天井のビスを数えていく愛してる

 この歌の空間にはおそらく異性がいる。会話はない。しかし二人は横たわり抱擁している。その異性に覆いかぶさられる熱量を噛みしめながら、しかし作者の目は天井のビスに焦点をあわせていく。だが愛しているという。

 愛情とは、複雑なものだし、範囲も広い。無償の愛もあれば、殺意を抱くほどの愛もある。いつまでもこのままならいいのになあ、というゆったりした愛もあれば、困難に燃え上がるような愛もある。これらが絡み合って愛情を投影する。

 この雑駁な存在に対し、作者はクールだ。だからこそ、相手への想いの深さに気付く。天井のビスを数えていくことは愛に冷めているからだ、というありきたりな解釈を吹きとばすパワフルな歌。

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 集末には特別顧問の矢澤保さんの歌も掲載されています。 

帆船の図鑑楽しみ自ずから午後の外出は縞柄を着る

蹴散らした洗濯物から引き出して黒猫を諭す妻は本気だ

 生活のなかのふとした心のさざめき。それをキャッチし、自分の言葉で詠う。短歌は、根本的にそれだけでいい。それで歌になる。あとは言葉の精密さだけだ。矢澤さんの歌に、僕らのような世代が学ぶことは多い。

 

吟行より

 後半には、へペレの会さんが時折行った合宿企画で、道内で訪れた旅行先の記録があります。その旅のなかで詠んだ歌が掲載されているので、これも読んでいきました。

旭川ー北見

焼きたてのメロンパン香る動物園まず食べるべしペンギンは後 矢澤保

 花より団子。色気より食い気。同情するなら金をくれ。このなかでは矢澤さんがいちばん女子なのかも知れない。

「馬に草あげるの、好き」と馬のいない芝生で矢澤さんがつぶやく 北山あさひ

 なんて素敵な紳士、矢澤さん。こんな歌を詠まれても、きっと笑っているだろう。そんな矢澤さんへの愛のあるいじり。「笑える歌」というのはかなり難しいのだけど、これは素直に笑ってしまう。

国道は紙ひこうきの真ん中の折り目のように伸びて 北見へ 佐巻理奈子

 これぞ吟行に生まれる歌。北海道はおそらく本州の、特に都市圏とはまったく別の世界が広がっているだろう。旭川から北見へ東にはてしなく伸びる国道が、紙ひこうきのイメージで一線につながっていく。北見はたまねぎの名産地(桃鉄情報)。

 

積丹ー島武意海岸

八月のカムイが海に零したるブルーハワイのシロップ ま、ぶ、し、い 北山あさひ

 積丹には、「積丹ブルー」なんて形容される美しい海が広がっているようだ。ブルーハワイが何の味かはわからないのに、僕はいつもブルーハワイにしてしまう。八月のカムイは、日焼けしてそう。アイヌの世界観は、日本人の八百万の神という信仰にフィットしていると僕なんかは感じてしまう。このことに限らず、それぞれの文化が尊重されることを願う。

 こういった地方独自の言葉が織り込まれていると、ああこの土地にいるんだな、という趣も感じられる。吟行では特にそんな歌にインスピレーションがわくのかもしれない。吟行したことがないのでわからないが。

 

知床 

動物が動物を見るしずけさの果てを歩めり鹿もわたしも 佐巻理奈子

 ここは動物に支配されている空間だ、という実感を山林に入ると覚える。動物は人間のような会話をしない。見ること、少し鳴くこと、それだけで動物の世界は出来ているかのようだ。それはまさしく「しずけさ」であり、このなかでは「鹿もわたしも」一頭の動物にすぎない。知床といえば国立公園。(おそらく)そのなかで沸き起こった敬虔な感情。

 写真には「知床玉湖」「オシンコシンの滝」などの看板がうつっていて、こういう景勝地にふっと寄れるなんていいなあ、とパワースポットの少ない名古屋で思うのだった。

 

まとめ

 へペレの会は、北海道支部の有志の面々が集まって活動している会だと書きましたが、こういった話はとてもうれしいものです。僕は復帰して間もないのでまだ現在の内部事情にうといのだが、僕がいた当時(2002-2010)には、そういった活動はほとんどなかったんじゃないだろうか。高めあえる仲間は得難いものです。

 歌人がいい歌を詠むことに、ショートカットは基本的にはないと思っていますが、実は2つだけあります。

 そのひとつは、自分の「師」を持ち、薫陶を受けることです。

 僕の場合では島田修三さんが先生で、短歌の読みと詠みを基礎から色々教えてもらいました。僕は間違いなく島田「先生」によって、一人で取り組んでいる方々の何年分もの時間を一気に駆け抜けることができたと思っています。だから僕は自己紹介文には必ず、勝手に「島田修三に師事」と書いています。

 もう一つのショートカットは、仲間を集めて集団で動くことです。

 僕らには「まひる野」という結社があり、これが全てのベースになっています。極論ではなく、「まひる野」に所属していなければ、現在総合誌で活躍している会員もここまでの活躍は出来ません。若い世代だけではなく、島田さんを含むベテラン世代もそうでしょう。例えるなら「集団」というのは城であり、城があるから、歌壇という広大な戦場でも相手と対等に打ち合えるのです。

 しかし会員各員の問題意識だったり、単純にやりたいことだったりには対応しきれません。そういうときには、同じ地方、同じ世代、同じ意識を持つもので独自のユニットを作り、共同作戦をとることが、間違いなくプラスになります。こういう動きを始めた方々は、一気に力を伸ばしていくと個人的には思っています。

 本当にこの記事を書いている時に、ちょうど「まひる野」2019.8が届き、前掲した塚田千束さんが誌内コンペの「まひる野賞」を受賞したと書かれていました。これが証左になるでしょう(僕の後出し感はありますけど)。

 だけど僕がこんなことを長々書かなくても、「へペレの会」の方々は当然そのことをわかっていたのです。最後に北山あさひがさん書いた「ごあいさつ」の一文を引いて終わります。

「一人ではできなくても仲間がいればがんばれる」